前回は仏生山公園と 法然寺讃岐十景碑はどこに あるだろうかと探し歩いた記事を書きましたが、そのお話の後編です。
仏生山公園にも、法然寺の境内にもないと言われ、ちょっとしょぼんとしていましたが、せっかく来たのだから、もう少し周辺を探してみたいという気持ちになりました。
(もちろんそれで見つけられたらいいなあと思っていました)
法然寺の境内や、滕神社、讃岐十景碑のことなんかにご興味がある方の参考になれば幸いです。
仁王門からほうろく地蔵
もうきっとお寺の方が「見たことない」というのだから、きっとそんなに目立つところにはないのだろうと、自分の見てみたいもの見て行くことにします。
もしかしたら違う門の傍にあるのでは、ともう一度黒門へ戻ります。
黒門の向こうには仁王門。
何となく門が多いけれど、どちらかと言うと門は好きな方です。
左右についの仁王像がありました。
門の良いところは、自由に往来が出来て、好きな角度から写真を撮っていられるところです。
何かの行事がある時でなければ、ほとんど人もいないので、ゆっくり観られます。
立派な作りですね。
その向こうには、ずらりと石燈籠が並んでいますが、その中には讃岐十景碑はなかったです。(たぶん…)
そのまままっすぐ行っても良いのですが、少し脇にそれて回り道。
まだ新しい感じのする五重塔です。
2011年に出来たので、ちょうど今年で10年目なのですね。
頼重公が建設計画を立てていたのだそうで、実現できてよかったですね。
続いて本堂の裏の道を抜け、北門のほうろく地蔵へ。
いくつか石碑や石柱はありましたが、ここにも讃岐十景碑はありませんでした。
変わった帽子のところが「ほうろく」だそうで、何かを被ったお地蔵さまは珍しい感じです。
この北門から乙女の像へ抜ける道は歴史ふれあいコースになっているのですね。
この写真を撮っているところで、先ほどの仁王門横の花屋さんと再びすれ違い、讃岐十景碑のことを聞いてみますが、やはり見たことはないとのこと。
何となく以前にも話したことがあるような人なんですよね、誰だったか…。
忠学上人墓から般若台へ
再び境内の中へ戻ります。
お墓ばかりだから、なるべくじっと見つめないように、とその中に石碑がないかを探していきます。(まさかとは思うけれど、一応です)
すると、忠学上人のお墓という案内を見つけました。
法然寺の第八世忠学上人のお墓だそうです。
ご覧のとおり、お墓と石碑が並んでいるので、一つ一つを見て行くのはやめました…。
そこから再び階段を上ると、少し広い場所に出ます。
二尊堂跡としましたが、つい最近、2014年までは二尊堂がありました。
当時結構大きなニュースになりましたが、法然寺が創建されて以来340年で初めて火災があり、焼失してしまいました。
もう推理、推測するしかないのですが、もしこの場所にかつて讃岐十景碑が置かれていたのなら、その火災の時に何処か別の場所に保管されていて、なんていうことを想像してしまうような光景です。
ここからの景色は讃岐十景法然寺という感じに相応しいです。
まだ黒い焦げ跡もあって、火災があったのだなあいう雰囲気ですが、大きなお堂が焼失すると、この礎だけが残るというのを見られてよかったです。
五重塔もできたのだから、またこの礎の上に二尊堂も再建されると良いですね。
二尊堂跡の上には文殊楼があります。
次から次へと門やお堂が続きます。
文殊楼の金剛策の向こうには、梵天、帝釈天がおられました。
文殊楼の説明版によると、「二層の建物の上層部分に梵鐘が吊ってある」そうなので見上げてみます。
確かに梵鐘らしきものが見えました。
平和の鳩が描かれ、吉井勇の歌が刻まれているのだそうです。
「この鐘のひひかふところ大いなる やはらぎの世の礎となれ」
No.16 吉井勇 梵鐘(短歌)|高松市のHPより引用
(梵鐘「平和の鐘」)
時折見かける吉井勇の歌、当時人気があったのでしょうね。
丸亀城でも見かけて、満濃池とあわせて香川では3つ目、と思っていたら、満濃池にはかりん亭の裏にあるのだそうです。
神野神社前、配水塔の前のは見ましたが、かりん亭のは見逃しているので、また見てみたいです。
総門、黒門、仁王門、二尊堂跡、文殊楼と石段を上りましたら、最後に仰ぎ見るのは来迎堂だそうです。
一歩一歩あの世に近づいている感がありますね。
前回来た時に、大丈夫だろうか、石段上がれるだろうか、という年配の方がいまして、手すりにつかまりながら、一段ずつ上がっていました。
僕は手すりにつかまらないで、ひょいひょいと上がっていたら、一段踏み外しまして、危うく来迎堂が現実のものになりかけましたが、何とかバランスをとれました。
ちょうど 法然寺讃岐十景碑はどこに あるだろうかと辺りを見回していたからだと思います。
見た目よりも急で階段の幅が狭く、苔で滑りやすから、どうぞ手すりを持って上ってください。
石段とお堂までの距離が狭いからか、来迎堂はとても写真に撮りにくいので、撮っていません。
ここも讃岐十景碑を建てるにはよいところなのですが、付近にはそれらしきものはありませんでした。
その奥には、般若台と呼ばれる場所がありました。
ここ般若台が国指定史跡なのですね。
指定区分 国指定史跡
高松藩主松平家墓所|高松市のHPより引用
指定年月日 平成31年2月26日
所在地 仏生山町(法然寺)
解説
高松藩主松平家墓所は、江戸時代、初代松平賴重以下、幕末に至るまでの歴代藩主を葬った大名家墓所で、仏生山町の法然寺と、さぬき市造田の霊芝寺の2か所からなる。
法然寺の墓所は、初代賴重をはじめとして3代賴豊から8代賴儀までの7人の藩主、正室、一族からなる202基の墓が一体的に営まれたもので、全国でも有数の規模を誇っている。その様相は、初代藩主賴重を頂点とする生前の身分に応じて埋葬位置や墓の規模が明確に区分されるなど、階層関係の表現が顕著に認められる。なお、墓所は、法然寺の柵門から入り南北両側の前池と蓮池跡との間を西へ向かって一直線に延びた参道の奥の般若台と呼ばれる丘の上に設けられており、これらの境内の空間構成は、初代賴重が帰依した浄土信仰における火や水の河に挟まれた白道を通り極楽浄土へ至るという「二河白道」の教えを具現化したものと考えられる。
※2代賴常及び9代賴恕の墓所は、さぬき市造田の霊芝寺にある。
※10代賴胤の墓所は、東京都の伝通院にある。
※11代賴聰の墓所は、当初東京の谷中に設けられたが、現在は当墓所に移されている。
僕は讃岐十景碑を揮毫した12代頼壽伯のお墓もあるのかと思っていましたが、伯のお墓は東京谷中霊園にあるだそう。
大きなお墓だと言うので、ここも一度訪ねてみたいところです。
これも推理、推測ですが、この般若台は一般には非公開となっているから、この向こうに讃岐十景碑があったら、普段見ることはできないです。
ほとんど山城のような石垣です。
軒丸瓦も葵の紋で、この辺は荘厳な雰囲気に包まれています。
石垣の周りを歩くことが出来るので、その道の途中くらいに、と思って見渡しましたが、見えるのは綺麗な景色ばかり。
ちきり神社
般若台まで来たところで、下に広がるお墓の横を抜けて下りて行きました。
お昼の時間を随分過ぎたので、人通りも少なくなっていました。
この通り、今は青空の澄み渡る春の陽気の中ですが、夜になったら確かに歩いて行くのは怖いかもしれません。
池の畔を歩いていくと(もちろん石碑がないか十分に注意しつつ)、総門(柵門)に到着しました。
総門前の道の反対側には、見返り地蔵堂(地蔵堂)がありました。
なるほど、この辺りも法然寺の一部だとすると、この先にある滕神社の方も見ておかなければ、という気持ちなり、歩いて行きます。
ちょうどちきり神社を避けるように道路があるので、ぐるりと回りこむような感じになっています。
この石段が参道になっているのですが、ここにもたくさんの石碑がありました。
法然寺と仏生山公園は200メートル先ですよ、と教えてくれる碑。
右へ行けば仏生山道、左へ行けば滕神社の案内碑。
四国のみちの道標もありました。
まあ、ないだろうけれどという気持ち半分でしたが、上ったことのない石段があれば、行ってみたいですよね。
こちらも法然寺同様に頼重公がこの場所に移したのだそうです。
ずらりと寄進板が並んでいまして、もしかしてこの中にありはしないか、と見ていましたが、ありませんでした。
あともう一息。
上まで行くと、木々に隠れているけれどちょうど仏生山の街並みが見えました。
小さな社から、大きな建物もあり、その規模は下から見上げた時に想像した以上でした。
こちらがちきり神社の本殿になるのでしょうね。
いわざらこざら
いわざらこざら|香川県のHPより引用
高松市仏生山町の平池(へいけ)のほとりには、一人の少女の像が寂しげにたたずんでいます。
その昔、まわりの田に大切な水を配っていた平池を、もっと大きくする工事をすることになりました。
何年も何年もかかって堤を築くのですが、池が大きいせいでしょうか、築いても築いても堤は押し流されてしまいます。
そんなある日、「あすの朝はやく、ちきり(はたおりの道具)をもった娘が通る。その娘をとらえて人柱に立てれば、うまく治まるであろう。」というお告げがありました。
そして翌朝、東の空が明るくなった頃、ひとりの娘が通りかかりました。人夫達が娘を取り囲んでなにをもっているのかとたずねれば、娘は素直に“ちきり”ですと答えました。
そのひと言で、命ごいもむなしく、娘は人柱として堤に埋められてしまいました。
それからは堤が切れることもなく、立派な池ができあがり、どんな大雨が降っても堤防が崩れることはありませんでした。
けれども堤の岩の間から流れ出る水の音が、「いわざらこざら」と聞こえてくるのです。それは、「いわざらましこざらまし」云わなければよかった、こなければよかったと、娘がすすりなくような悲しげな音だったそうです。
今は平池を見おろす山の上に、乙女の霊をまつる神社があり、人々にこの話を伝えるための「乙女の像」が立っています。
ちきり神社って珍しい名前の神社だと思っていたら、このいわざらこざらの娘が持っていたのが「ちきり」なのですね。
昔からこのお話は語り継がれていただろうから、子どもの時に聞いていたら怖かっただろうなあと思います。
ちょうど門の改装工事をされていました。
その前から仏生山公園の方を眺めると、こちらもなかなか良い景色です。
なるほど、東西に法然寺とちきり神社が並んでいるのですね。
これまた急な石段を下りて行くと、ちょうど総門前に着きました。
この日も2時間ほど時間をかけて探していましたけれども、讃岐十景碑は結局見つかりませんでした。
もしかしたらと、仏生山のコミュニティセンターにも立ち寄り、昔のことに詳しい方にも電話で尋ねてもらったのですが(その際は大変お世話になりました)、見たことが無い、ご存知ないとのことでした。
「10のうち、どのくらい探せたんですか」と尋ねられたので、正直に「ここ以外全部…」と答えてしまいました。
法然寺讃岐十景碑はどこに
こうなってくると、法然寺讃岐十景碑はどこにあるのだろうか、いや本当に法然寺は讃岐十景に選ばれていたのだろうか、と心配になってきます。
Wikipediaも含めて、壮大な誤りであったらどうしよう、という感じ。
僕が尋ねた方は全員法然寺が讃岐十景であるなんていうことなんてご存じなくて、僕が間違っているのかも、と思い始めたほど。
しかし、讃岐十景については、確か新聞の販促も兼ねた投票だったと聞いているから、昔の新聞があるのでは、と別の日に県立図書館に来てみました。
「すみません、香川新報を閲覧したいのですが…」
「マイクロフィルムです。いつ頃ですか?使い方わかりますか?」
「ええと昭和2年の11月頃」(どの讃岐十景碑にもこの日付が彫られている)
あんまり県立図書館でマイクロフィルムを閲覧するなんていうのは、手間なことなのだろうか「ちょっと煩わしい」程度のセットを終えて、一つずつその機能を説明してくれました。
僕も学生時代に一度、働き始めた頃に数度扱ったことがありますが、なんでこんなにやりにくいのだ、というような機械です。
面倒だよね、マイクロフィルム。
しかし、1枚10円でコピーができる(これも丁寧に教えてくれました。失敗したら呼んでくださいと言われたけれど、失敗はしなかった)ので、讃岐十景に関するいくつかをコピーしました。
そのコピーがこちらです。
はじめて見つけた時には、「あっ!」と声が漏れてしまいました。
「佛生山法然寺」は、「一枚一枚慎重に審査」し、確かに讃岐十景に選定されていました。よかった、法然寺はやっぱり讃岐十景でした。
表彰式もあったようで、松平頼壽伯揮毫の「讃岐十景」「讃岐五景」、そしてはじめて知った「讃岐五勝」の文字がありました。
何と10日後22日には、法然寺にて表彰されたお祝いの披露会まで開いていまして、有志が本坊に集ったことまで記事になっていました。
讃岐十景碑を設置したことは何かないかと前後を読み進めると、
ありました。何と入選記念碑の建設祝賀会まで開かれているではありませんか!
しかも、お休みにして、全戸に国旗を掲げ、小学校児童200名が新聞社迄行き、1500名あまりに迎い入れられたのだそうです。
讃岐十景碑は、大騒ぎの中で運ばれてきたのですね。
12月10日にはいよいよ石碑の実物が運び込まれる段取りがあって、沿道には有志の出迎えしたそうです。「境内の中へ運ぶ」となっているので、讃岐十景碑は法然寺の中に入ったところまでは間違いがなさそうです。
本当はどこに設置されたかまで調べたかったのですが、その後どこに建てられたかまではわかりませんでした。
でもわかったのは、讃岐十景碑は、その他の選定地同様、仏生山法然寺でも熱狂的に迎えられ、どこかに設置されたということです。
もちろん僕の探し方が悪くて、見逃している可能性もあるし、膨大な墓石の中に混じっている可能性もあるかもしれません。
しかし、松平家の菩提寺、法然寺にあるのに、頼壽伯が揮毫した石碑を軽んじることがろうか、と考えるとそんなことは考えにくいです。
きっとどこかに大事に保管されているのだろうと思います。
これで僕の法然寺讃岐十景碑探しはお終いです。
どこかで見かけたら、どこかで保管されているのがわかったら、是非もともと建てられていた場所に置いてほしいなあと思います。
いつの日か、できればよい方向で、続編が書けたらいいなあと思います。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。