本当は 讃岐十景国分寺 とするよりは、四国霊場80番札所国分寺とか、讃岐国分寺とするのがいいのだろうと思います。
しかし、香川県の讃岐十景を探しているので、今回は 讃岐十景国分寺 としました。
是非前回の特別史跡讃岐国分寺跡とあわせて、お読みくだい。
讃岐国分寺のことにご興味がある方の参考になれば幸いです。
目次
讃岐十景国分寺 の駐車場
実は国分寺跡の史跡公園に行った日とは別の日に行きまして、奥さんはいつの間にか参拝していたらしく「もう行かん」というので、僕だけ行きます。
まあ、その方がゆっくり観られるからね。
まずは、駐車場から見て行きます。
讃岐国分寺に行きにくいなあと思っていた理由の一つは駐車場です。
どこにあるかは以前から知っていたのですが、下の県道を通るたびに駐車場の様子を見ると、土日祝日は大抵たくさんの車が停まっています。
もちろんお遍路をする方や地元のかがわさんは慣れているだろうから、ここに停めておけば大丈夫、という気がするのだろうけれど、僕はそのルールを理解できていません…。
讃岐国分寺専用駐車場(参拝者以外駐車禁止)と書いてあるので、専用駐車場なのだろうけれど…、
Pの矢印があって、さらに「バスの進入路につきこの前は駐車禁止」とあります。
バスがここに停まるのか、と驚きもありますが、バスは慣れているのでしょうね。
国分寺は「さぬき七福神」の一つで弁財天をお祀りしています。
何となく一般の家屋の玄関があるし、参道のようにも見えるので、一体どこに停めれば大丈夫なのだろう、と考えてしまいますが、そのまま進みます。
公式サイト(とても見やすい)には、
「駐車場:20台 山門前に無料であり20台 大型バスも駐車可能」
とあるので、ここなのでしょうね。
写真では右手、方角では東の壁に沿って駐車されていました。
市道(と言っても細い道)を超えた山門の前にも数台停められています。
駐車場の壁には特別史跡讃岐国分寺跡の説明版もありました。
なるほど、特別史跡の指定範囲は、「現讃岐国分寺を含む」ので、境内の中にも国分寺跡がありますよ、ということなのですね。
もちろんかつての伽藍とは変わってしまったけれど、その名や境内の一部をそのまま受け継いでいるのだから、それはそうだ、と思います。
美しい松に覆われた美しい仁王門の前に立つと、僕は一目でわかりました。
写真で言うと左側。
ありました、讃岐十景碑。
法然寺では見つからなかったので、こちらではすぐにわかってよかったです。
昭和二年に讃岐十景が決まった時には、まだ讃岐国分寺跡の史跡発掘も進んでいなかっただろうから、札所の讃岐国分寺として選定されているのでしょうね。
お隣は四国民報社の記念碑があり、石の柵に大事に囲われていました。
讃岐十景碑は、讃岐国分寺の仁王門前にありました。
仁王門から
他にも歩きへんろさんへ、という親切な看板があります。
具体的なお店の名と詳しい道案内が、読んでいてなかなか面白いところ。
81番札所白峯寺と82番根来寺の中間地点になるのですね。
(地図は平坦に描かれていますが、実際は山です)
また後で触れますが、「さぬき七福神」のうち、讃岐国分寺は弁財天さまです。
讃岐国分寺の公式サイトには、境内のあれこれが本当に詳しく書かれていて、どうしてても引用したくなるところ。
仁王門 nio-mon
仁王門 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺のHPより引用
現在、メインとなる山門であり、創建当時の中門があったと推定される位置に建てられています。建立時期は本堂と同じく鎌倉時代と考えられ、門を守る仁王像は二体は寺伝では運慶の子、湛慶の作と伝えられています。
なるほど、現在の山門、仁王門は、かつての中門となるのですね。
ということは、駐車場の場所は…とも思いますが、今は今ですね。
バリアフリーの設備も整えておられて、とても現代的な感じもします。
門には運慶の子湛慶さんの柵と伝わる仁王像。
見入ってしまうほど、とても立派な像なのですが、僕の写真の腕では何度とっても格子にピントがあってしまいますので、ご興味のある方は是非ご自身で見に行ってください。
ちょうど人の往来もあるから、仁王門でゆっくり、という感じではないですよね。
裏側に回ると、大きな草鞋。
注意書きも達筆で、いつ書かれたのだろうという趣がありますね。
わあ、この参道は素敵ですね!
両脇に松の木があって、トンネルというか、松並木の中を歩いて行く感じです。
さすが盆栽も街という感じで良く手入れされている感じ。
爽やかな3月の風に吹かれると、ここを歩くだけでも心清らかな気持ちになります。
参道の松の奥にはミニ八十八ヶ所巡りがあり、一番から八十八番まで並んでいました。
右側が八十八番となっていたので、左からお参りするのですね。
もともとは近隣の里山にあったものを、昭和初期、国分寺の境内に移設したものです。一巡すれば、四国八十八ヶ所をすべて回ったことに準ずる功徳が得られます。
仁王門 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺のHPより引用
なるほど、近隣にあったものを境内に移されたのですね。
松と松の間から、見え隠れする像や建物を眺めながら、歩みを進めます。
(この記事同様なかなか前に進まないが…)
讃岐国分寺の鐘
お寺の時期を書いていて、時折困ってしまうのが一枚の写真の中に情報量が多すぎる時です。この下の写真中もそうです。ウムム、どうしよう…という感じ。
悩んでいても仕方がないので、まずは右端の釣り鐘、梵鐘から見て行きますね。
わあ、この梵鐘は、国の重要文化財に指定されているのですね。
香川で重文指定の梵鐘は2件、この鐘は「銅鐘」として登録されていました。
名称 : 銅鐘
国指定文化財等データベースより抜粋し引用
ふりがな : どうしょう
員数 : 1口
種別 : 工芸品
国 : 日本
時代 : 平安
指定番号(登録番号) : 00410
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1944.09.05(昭和19.09.05)
所在都道府県 : 香川県
所在地 : 香川県綾歌郡国分寺町国分2065
所有者名 : 国分寺
解説文:平安時代の作品。
香川では、他に屋島寺と小豆島長勝寺の梵鐘が重要文化財に指定されていますので、3つのうちの一つです。
梵鐘には、「かねがものいうた國分のかねが もとの國分へいぬというたと 云ふかねです」と書いてありまして、何かそういうエピソードがあるのかと見てみると、伝説と実説とが解説されていました。
《伝説》昔、安原郡百々渕(どどがふち:現在の塩江町)に大蛇が住み、近隣の住民を悩ませていた所、弓矢の名人別次八郎が、当山、千手観音に「一矢当たれば千矢の霊験あれ」と祈願し、大蛇を見事退治した所、大蛇がこの鐘を冠っていたということです。竜神の夢告により、この鐘は当山に奉納されることとなったと伝わります。
梵鐘 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
なるほど、とこれを読んでいる時に思い出したことが一つありました。
弓に大蛇、そういえば、
ありました、これこれ。
さぬきこどもの国に竜の遊具があって、その一角に香川の昔話を掲載しているコーナーがあります。
僕ははじめて見た時から、知らないお話ばかりだったので、一つ一つ立ち止まって読んでいたのですが、子どもが「早く!」と急かすので、詳しく読む暇がなく、写真を撮って後から読んでいました。
その中の一つに「国分寺の鐘」がありました。
なるほど、昔話になるような有名な伝説なのですね。
その中でも後の時代に高松の殿様が、というのが実説として掲載されています。
《実説》江戸時代・慶長十四年二月二日、高松藩主生駒一正公が参詣の折に、この鐘の音の美しさをいたく気に入り、「朝夕の時の鐘に」と城に持ち帰った所、鐘は少しもならず、城内外に怪異が広まり、疫病が流行、一正公も病床に伏すこととなりました。
梵鐘 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
毎夜、鐘が一正公の夢枕に立ち「国分寺へいぬ いぬ(帰るの古語)」と泣いたということです。これは鐘の祟りに相違ないと恐れられ、同年三月十四日に返されました。
この時に作られた歌が「鐘がものいうた 国分の鐘が もとの国分へ いぬ(帰るの古語)というた」というものです。寺にはこれが事実であったことを示す当時の証文が現在も残されています。
なるほど、玉藻城に持ち帰ってたが、鐘が「いぬ、いぬ」(帰る、帰る)と泣いたので、元の場所、ここ国分寺に帰ってきたのですね。
いろんな場面に応用して使えそうなので、流行り歌みたいな感じだったのでしょうね。
鐘一つで、いろんな物語を持っている讃岐国分寺銅鐘、梵鐘がこちらです。
特にこれということもないけれど、いろんなお話の元になっている鐘が目の前にあると思うと、なかなか感慨深いものです。そして、平安時代からあるというから、古い時代を想起させる工芸品でもあります。
金堂礎石から本堂へ
梵鐘に続いて、次は礎石です。
(この時点でこの記事は相当長くなるなあという気になったので、少し簡単にしていきますね…)
本堂へ続く参道の中で、妙に大きな石があると思っていましたら、こちらがかつての金堂の礎石だそうです。
金堂礎石 kondo-soseki
金堂礎石 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
境内のほぼ中央に、大きな石が並んでいます。これは創建当時の金堂の礎石です。そのほとんどが元あった位置に現存しています(36個中33個)。礎石から上部構造を復元すれば、東西十四間、南北七間の大堂であり、現存建物では奈良唐招提寺の金堂とほぼ同じ規模です。
なるほど、前回見た金堂(模型)、ここにあったのですね。
そして、これまでの解説を見聞きする限り、この金堂から回廊が東西に連なっていまして、その外側に築地塀があったのだそうです。
ちょうど金堂礎石の西手側(右側)になるのですね。
今は木々に覆われていて、区画が分かれているけれど、本来は一体となったものだったのですね。
いろいろ難しいのだろうけれど、一か所(できれば回廊跡)法然寺のように通れるようにしてはだめなのでしょうかね。
これから見て行く本堂の横や裏という感じではないから、もし行き来できるようにするなら、ここがいいなあと思います。
国分寺由来の看板です。
白牛山千住院国分寺というのがお寺の名前なのですね。
その奥が本堂になっていました。
こちらの建物も国指定の重要文化財です。
本堂 hon-do
本堂 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
国の重要文化財。鎌倉時代中期の再建と考えられ、創建時に講堂があった場所に、講堂跡の礎石をそのまま利用して建てられています。九間四面(廻縁を入れれば十一間四面)の規模を有し、本瓦葺単層屋根入母屋造りで、組物は和様出組、軒は二重繁垂木(本垂木)で、堂内は、内陣と外陣に分かれ、内陣は鏡天井、外陣は格天井となっています。
鎌倉時代中期に、金堂の先にあった講堂の礎石を利用して建てられれているそうです。
金堂や僧房ではなくて、講堂を使ったというのにも理由があるのでしょうかね。
この本堂のちょうど西側には、掘立柱建物跡があります。
本堂側からは見えませんが、史跡側からは本堂の屋根が見えています。
本堂まで来たから、お参りをします。
御詠歌は、国を分け野山をしのぎ寺々に 詣れる人を助けましませ。
真言は「おんばさらたらまきりく」。
御本尊は秘仏の十一面千手観世音菩薩で、60年に一度!の御開帳。次回は2040年ですから、あと19年待つ必要があります。像の高さ5mだそうです。
木造千手観音立像(国分寺)|高松市
本堂より古い平安時代末の木像で、色がついているのだとか。
ほとんどの方が一生に一度目にすることができるかどうかという千手観音です。
国分寺の石碑には行基作とあります。
明治期には国宝に指定されていたのですね。
いろんな角度から見てみると、大きな建物であることがわかります。
そしてこの奥、裏側の木々の向こうには僧房跡があるので、それはそれは広い伽藍だったのだろうと思います。
福龍と弁財天
その本堂の隣には鳥居があり、境内の案内を見ると春日神社となっています。
どうしてここに、と思っていたら、
もともと村落内でお祀りされていたお社を境内に移設した鎮守様です。
春日神社 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
ここに移設されてきたのですね。
更にそのお隣に「福龍」と書かれた看板がありました。
御衣木 misogi
御衣木 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺より引用
弘法大師が本尊を修理した際の残木と伝わります。その形が龍に似ていることから福龍と呼ばれており、様々なご利益がいただけます。江戸時代の名所図絵にも記載されています。
なるほど、先ほどの秘仏本尊の作成は行基とされていますが、それを弘法大師が修理したとの言い伝えがあり、その残木だということです。
朽ちないで形を保っているのはなかなかすごいところです。
手前の灯篭には、慶応年間の日付がありました。
慶応という元号がここでは新しく感じるのが不思議なところです。
その福龍の向かいには弁財天がおられます。
さぬき七福神
さぬき七福神|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト – うどん県旅ネットより引用
「観光と信仰」をテーマとし、白鳥神社、與田寺、法然寺、田村神社、香西寺、国分寺、滝野宮天満宮の由緒ある七つの神社仏閣が手を結んで開創した。
讃岐国分寺は、結構いろんなところでお名前が出てくるのですが、さぬき七福神でもあります。
まだ記事にしていないのはあと3つ。
田村神社、香西寺、滝宮天満宮となりました。
何となくどれもいつでも行けるかな、とそのままになっています。
讃岐十景であり、さぬき七福神であり、四国霊場の札所であり、特別史跡なのは、ここだけなので、やはり特別なところなのですね。
弁財天さま、本当に優しそうなお顔をされています。
福松、七重塔礎石
まだまだ境内には、見るものがたくさんあります。
良縁社に、
願掛け不動明王さま、
お隣には成満大師像。
成満大師とは誰のことだろうと思ったら、お大師さんのことなのですね。
さらに大師堂と納経所が見えました。
ええと、もう長い時間このブログをお読みいただいている方はお気づきかもしれませんが、いつも以上にこの記事は長くなってしまっていまして、書いているうちに僕自身が少し疲れてきてしまいました。(写真を当地で撮っている時も同じ)
ここからは、少し駆け足で参ります。
稚児大師の奥には大師堂。
中に入ってみたかったのですが、他に見なければいけないものがあったので、ここは入口だけにしました。
その隣には、金色の願掛大師。
福松という松の木もありました。
↑上を見て下さい、とあるので見上げると…
大きな鳥の巣のようになっています。
確かに、何となく福がありそうな松の木です。
この辺りに来た時に目についたのが、幻の大日如来像の再現のPRポスターです。
そういえば、何度かテレビや新聞で目にしたことがあります。
クラウドファンディングで挑戦しているのですね。
弘法大師の「幻の大日如来像」再現について
2013年からはじめたということなので、再現できると良いですね。
元の参道に戻って見ると、先ほど見逃したお迎え弁財天さま。
その奥は閻魔堂です。
参道の東側へ向かうと、石碑がありました。
四国八十八か所石仏移転建立由来と書かれていますので、石仏を移転してきた理由は記されているのでしょうね。
その先には千体地蔵堂と北向き地蔵。
ミニ八十八ヶ所の傍には、誠忠記念碑という石碑もありました。
さて、もういよいよ最後となりますが、七重塔礎石です。
石積みの塔のようなのが真ん中に置かれ、その周りに礎石が置かれていました。
七重塔礎石 nanajunotoh-soseki
七重塔礎石 | 讃岐國分寺 | 讃岐国分寺のHPより引用
創建当時の七重塔の礎石が元あった位置のままでほぼ完全に残っています(17個中15個が現存)。もし、現存すれば現在日本一高い東寺の五重塔を超える大塔であったと考えられています。
なるほど、東寺よりも高いものであった可能性があるのですね。
ふと僕は史跡公園に建てられた伽藍の模型を思い出しました。
高い塔は、この一帯からよく見えただろうから、讃岐の方々のシンボル的な存在だったのでしょうね。
まだまだ見ていないところはたくさんあるけれど、いつまでもこの記事を書いているわけにもいかないので、そろそろ讃岐国分寺の境内を後にします。
史跡と境内をぐるっとまわり、地図にすると、大体こんな感じになるのでしょうかね。
黄色いところが特別史跡の範囲で、黄緑が札所の国分寺と、そのお隣のお寺の境内です。
そこに今回見た建物や礎石を並べてみますと、こんな感じになります。
松に囲まれた讃岐十景国分寺は、香川の重要な文化拠点の一つで、時代ごとに様々な物語が交錯している歴史の集積地でもありました。
もし訪れることがあったら、是非礎石に昔の伽藍や建物の姿を重ねて想像してみてください。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。