瀬戸内海歴史民俗資料館 というミュージアムが、高松市と坂出市の境、五色台の山中にあります。瀬戸内海の文化を紹介する施設なのですが、小高い山の上にあります。今回は開館50周年記念事業で「そらあみ」を展示しているというので、見に行ってきました。(もう会期は終わりました)
瀬戸内海の歴史や文化、そして建築物にご興味のある方は、よろしければご覧ください。
瀬戸内海歴史民俗資料館は山の上
まずは場所から見て行きます。
亀水のバラ園や川島猛アートファクトリーミュージアムの少し西側です。
住所は「高松市」となっていますが、坂出市との境にあり、また山の中を上って行った場所になります。
公共交通機関はないので、ほぼ皆さん車で来ています。
「大崎の鼻」という岬があり、そこから手前が小鎚島、奥が大槌島です。
大槌島までは香川県で、大槌島の南は香川県、北側は岡山県となっています。
ここから車で5分ほど上がっていくと、瀬戸内海歴史民俗資料館の駐車場に到着です。
ここには高松港から移設された白灯台と赤灯台のモニュメントがあります。
わあ、僕は今回気が付きましたが、ちょうどその間を通って、高松港に入港するみたいな感じですね。
こちらがエントランスになりますが、その前には宇高連絡船「讃岐丸」の錨があります。(こんな風に至る所に何かがあって、なかなか先に進めない…)
実は瀬戸内海歴史民俗資料館は、建物自体もとても評価が高いということで、「日本建築学会賞受賞作品」という碑があります。
横型なの、なかなか珍しいですよね。
さて、これまで僕はこちらの瀬戸内海歴史民俗資料館の中は「撮影禁止」と思っていました。
しかし、別の方が写真や動画をあげていたので、電話で聞いてみると…
「撮影大丈夫ですよ、注意書きがなければ写真も動画もOKです」
な、なんと!これは驚きました。
2015年なので、もう随分前だけれど、入口に「撮影禁止」という札がありまして、係の方に「撮影はだめですか?」「だめなんですよ…」というやりとりをした記憶があります。
今回は、念のためもう一度(係の方お二人に)「撮影してもいいですか?」「大丈夫ですよ」とのことでした。
お二人とも「撮影が禁止」だったことすら知らなかったみたいなので、テーマ展の為だったのか、それとも随分前から変わっていたのかもしれません。
という訳で、中も紹介できることになりまして、本当によかったです。
(訪れる方も少ないが、施設の中の写真もweb上で非常に少ないですよね。やはり昔から撮影禁止だったのでは、と思います)
上空から見るとこんな位置関係になっておりまして、別の方が聞いておられました。「この写真はどこから撮ったのですか?」
「航空写真です」
そうですよね、なかなかこんな感じで撮れないですよね。
直島の地中美術館同様、麓からも見えなくて、海からも見えるか見えないか、という感じです。
全体の模型もありました。
いくつかの建物がそれぞれ連なって展示室になっており、全体で一周するような感じで見ていきます。
こんな感じでエントランスだけでもいくつも引っかかってしまうので(この感じだときっと書き終わらない…)、少し絞って書いて、後に追記していくスタイルで書きますね。
瀬戸内海歴史民俗資料館 そらあみ
エントランスから右に向かうと、大きな船があります。
「イワシ地曳網船(愛媛県伊予市双海町)」と解説にあります。
よくよく考えてみたら、この山の上に船を持ってくるって、すごいですよね。
資料館として、貴重な文化財を残しておこうという気概を感じます。
隣に置かれているブルーの四角は、普段はありませんが、この時には東京芸大と香川県の連携プロジェクトが行われていて、華やかになっていました。
海っぽくて、とても良いですよね。
何気ない展示でも、いつもと違って見えるから、瀬戸芸が続いていて、本当によかったなあと思うところです。
さあ、ここですよ、第一展示室。
この左側に「撮影禁止」という札がありましたが、今はもう見当たりません。
大漁旗の向こうに宙に浮かんだカラフルな網が見えました。
瀬戸芸2016,2019の作品の中で、とても人気のあった作品の一つ「そらあみ」が展示されていました。
これを作るワークショップも開催されていて、皆さんで作り上げたのだそう。
僕も2019年秋の本島以来だったので、何だか感動してしまいました。
高根島の渡船
さて、もし写真があって、瀬戸内海歴史民俗資料館(もう長いから歴民にします…)のことを書けるなら、このことを書こうと最初から決めていました。
先ほどのイワシ船同様、何隻かの船が第一展示室に飾られています。
その中に「渡船高根島」というのがあります。
わあ、これは僕が子どもの頃から話に聞いていた、渡船(わたしぶね)ですね!
もう僕が訪れた時代には、橋がかかっていて、その橋をくぐるたび、「昔は渡船だった」という話を聞きました。
一度だけ高根島に橋を渡って行ったことがありますが、昔はこうして船で行き来していたのですね。
生口島の瀬戸田と高根島との間、100数十メートルを結ぶ人々の足として、昭和25年から30年ごろまで活躍。その後も代船として働いたが、昭和45年高根島橋の完成によってその役割を終えた。舳先から乗降し、出航時は「手こご」で岸壁をこねて押した。平素は無料、正月と盆は渡し分として「麦一升」を渡した。
瀬戸内海歴史民俗資料館の展示解説より
解説もあって、普段は無料で往来できたこと、盆と正月は麦が要ったこと、などが記載されていました。
確かに「高根島まで無料で渡れた」と言っていました。
先日亡くなった伯父の話に、祖母が嫁いで来た際のエピソードがありました。
四国今治から、船で朝出発し、船を何度も乗り継いで、このあたりにくる頃は夕方だった、と言っていました。
確かに、こんな感じで島々を往来していたら、時間がかかるよなあと思います。
僕は全くこの船には乗ったことがないのだけれど、この舳先なんかを見ていると、全然知らない世界ではなくて、ここから昔ひょいと乗ったり、下りたりしたことがあるような、不思議な気持ちになるのですよね。
香川の五色台の山の上で、海の上に浮かぶ船を見てしばしその情景を思い浮かべました。
渡船、これがあったから、その後いろいろとつながるわけで、感謝しなくては、と思います。
その他にも「いただきさん」と呼ばれる女性の乗る自転車がありました。
漁師さんの妻がしていることが多く、今でも高松の街中で魚を売っている姿を見かけます。
僕はお一人だけ知り合いになることあって、商店街でお会いすると
「あら、にいちゃん、元気にしとん?」
なんて大きな声で声かけてくれました。
とても気前がよくて、何度か魚介類をいただいた記憶があります。
カミツケ釣
僕は漁師でも漁具に詳しいわけでもなんでもないのですが、この漁撈用具だけは、記憶の中にしっかりとあります。
こちらも伯父が小さな船を持っていて、沖合で釣りをしていました。
小学生の頃だったか、何度か船に乗せてもらい、この漁具で釣りをしたことがあります。
名前がわからなくて、ずっと気になっていたのですが「カミツケ釣」とありました。
「ムシ」と呼ばれる小さなゲジゲジのような虫を針先に刺し、船の縁の部分からおもりのついたテグスを沈めます。
するすると海中に沈んで行くのですが、「こつん」という感触が伝わって、それがおもりが海底についた合図。
そこから少し巻き上げ、ゆっくり上下にテグスを揺らします。
最初は「チョコン、チョコン」と何かがぶつかったような感じがして、その後に「ビビビッ」という辺りがきます。
ちょうど空に浮かべる凧の糸を巻くように、引き揚げると、魚がかかっています。
オコゼやフグなんかも多いのだけれど、釣りたいのは何と言っても「ベラ」「キュウセン」です。
僕が釣ったのは、こんな感じの赤い小さなものでしたが、伯父は大きい青い(実際は緑だ)魚をバケツ一杯にして帰ってきたことがあります。
祖母はそれを見て、「いい加減にせにゃ」と窘めるのですが、当時は何でたくさん釣ってきたのに?と不思議に思っていました。
今考えてみると、その後魚の下処理をするのは手間だし、とても信心深く殺生を嫌がっていたから、大人になってなるほどなあとその気持ちが理解できました。
晩年、操船ができなくなり船は手放したそうで、その後に「もう船は売った…」と寂しそうに言っていました。
僕も心のどこかで、大人になったら沖合に船を出して釣りをしてみたい、と思ったことがありましたが、実際に行動する情熱とか力量が及ばないなあと思います。
カミツケ釣の思い出は、海に出る前に双眼鏡で海の様子を眺める姿や、船を動かす時の動作なんか、昨日のことのように、とてもよく覚えていますので、こうやって書き記しておきたいと思います。
第一展示室の中二階のフロアにも、「くらし⇄うみ展」の展示がありました。
もちろんこの他にも、何千点も展示物があるので、一つ一つ紹介することはできませんが、第一展示室から第十展示室まであります。
また少しずつ、歴民の展示については追加していければと思います。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。