高松塚古墳と壁画館へ行ったことを書いておこうと思います。
石舞台古墳、飛鳥宮跡、橘寺へ行った後、高松塚古墳へ向かいました。
高松塚古墳と壁画館(高松塚壁画館)にご興味のある方の参考になれば幸いです。
目次
高松塚古墳と壁画館の場所
まずは場所から見て行きます。
僕は石舞台古墳の駐車場に車を停め、飛鳥旧跡と橘寺へ寄り、その後に車で高松塚古墳へ移動しました。
石舞台古墳の駐車場から高松塚古墳の駐車場までは、車で5分ほど。
この後に行くキトラ古墳も車で3分ほどです。
「飛鳥歴史公園館」という建物があり、その前が駐車場になっていました。
ここから高松塚古墳、高松塚壁画館までは徒歩で10分ほどです。
もう少し詳しく飛鳥歴史公園館駐車場の場所について書いておきますね。
なぜなら、年に何度かある高松塚古墳壁画の公開が、この近くで行われているからです。
僕は行ってないのだけれど、高松塚古墳の壁画を公開しているのは、飛鳥歴史公園館の奥にある「国宝高松塚古墳壁画仮設修理施設」だと思います。
事前予約制で公開しているのですね。
僕はお手洗いに行きたかったので、立ち寄り、地下道から高松塚古墳の方へ向かいます。(向かい側にも駐車場はありましたが、お手洗いはなかった模様)
ここから高松塚壁画館へ行くには、徒歩か自転車のみです。
高松塚古墳と壁画館までの道
駐車場から下りて歩いたところから見ていきます。
ちょうど今通ってきた道を横断するように地下道があり、その下を潜って反対側へ向かいます。
何だかよくわからないけれど、雨が少し霧雨のようになってきて、この地下道の雰囲気もとてもよかったです。
晴れている時には、その良さがありますが、春の小雨の中古墳を見に行くのも、なかなか悪くないものです。
芝生の広場のような場所があり、「入口」とあるので、入りそうになりますが、ここではありません。
「←高松塚古墳 高松塚壁画館」という案内板があるので、それに従って進みます。
行った後にわかることだけれど、どの階段、道からでも繋がっていました。
隣も古墳だよなあ、と思いながら、階段を上ります。
こんなにあちこちに古墳があったら、昔は大変だったろうなあと思います。
階段を上り切ると、少し景色が見渡せる丘のような場所に出ました。
自転車や徒歩でキトラ古墳へ行く場合はこの道ですよ、という看板があります。
高松塚古墳とキトラ古墳を一緒に巡る方が多いのでしょうね。
高松塚壁画館に到着です。
僕ははじめて来ましたが、半分地中に埋もれるような作りになっていて、古墳の入口を想起させます。
わあ、ちょっと憧れのあった壁画館、いよいよ中へ入れるのですね。
受付で料金を支払います。
石舞台古墳もそうでしたが、JAFの割引があり、提示すると団体料金で入れます。
(JAFカード1名につき1名割引とのことで、2枚出しました)
そして驚いたのは「館内は奥の石室以外は撮影OKです」というところ。
「え、撮影良いんですか?」と僕は聞き直したほどです。
まあ、復元したものなので、OKということなのでしょうけれど、とても嬉しいことでした。
高松塚壁画館
中に入るまでは、僕もどんな雰囲気かわからなかったのですが、入ってみてびっくりです。
わあ、上皇様もおいでになられているのですね。
考えてみるとご先祖様のお墓の可能性もあるわけで、興味深くご覧になられたのでしょうね。
最も手前に展示された、高松塚古墳の最も有名な壁画、女子群像。
この前に立ってみたら、何だか動けなくなるほど、僕は感動してしまいました。
いやあ、古墳の中に描かれたいたこういう壁画がある、ということは昔から知っていたし、歴史の教科書や図録にも載っていたし、確か記念切手にもなっていたし、見る機会はたくさんありました。
しかし、こうして実際に同じ寸法で岩肌に描かれた極彩色の絵を見ると、全く違う気持ちになりました。
石舞台古墳や飛鳥旧跡、橘寺では見られなかった、当時を生きた人々の姿や立ち振る舞い、持ち物などが、美しい筆致で描かれています。
本壁画は、日月星宿図・四神図・人物図からなるが、その主題や画面構成には高句麗壁画との関連が考えられる。しかし人物群像に見られる奥行のある空間構成や暈取り、塗り重ねの彩色法および運筆などは、中国の新しい技法を採り入れたものと見られ、その点で唐代絵画との密接な結びつきが考えられる。なお人物図は、時世粧を写したものと見られ、わが国上代絵画の中にあって稀有なもので、貴重な遺例ということができる。制作時は七世紀末~八世紀初めが考えられる。
高松塚古墳壁画 文化遺産オンラインより引用
1300年ほどの時を超え、そこに生きた人々の様子を垣間見られるって、すごいことです。
高松塚古墳の壁画は、国宝に指定されていますが、その価値が十分にあるなあと思います。
高松塚古墳 壁画館に置かれた壁画
こんな感じで左右に一対ずつ、壁画を平面にして展示されていました。
まずは、東壁の男子群像と青龍。
青龍の上には「日(太陽)」があります。
青龍の背後には女子群像。
ついつい日本の文化というと、武士道とか平安の貴族などを思い出してしまいますが、その前の時代、アジア各国の影響を受けながら、同時代を過ごし、その文化を吸収していった時代があったのだろうなあと思います。
北壁に描かれた玄武。
亀と蛇が描かれていますが、中心部は先に内部へ入った者によって壊されていたようです。
同じく南壁も内部に先に入った者による土砂が堆積しており、本来描かれたいたであろう図柄(たぶん朱雀)が失われています。
最後に西壁。
ここに、先ほどの有名な「飛鳥美人」の女子群像があります。
こちらの群像、最も顔の表情などがわかりやすいので、高松塚古墳壁画の象徴になっているのですね。
その前には白虎とその頭上に「月」。
最後に男子群像が描かれています。
復元した「模写」と言ってしまえばそれまでですが、実は模写した方々もすごいです。
壁画模写は、前田青邨氏のご指導により、昭和49年に平山郁夫 東京芸術大学教授(当時)を監修に、守屋多々志 愛知芸術大学教授(当時)を中心に、20名の方々に制作をお引き受けいただき、約2年の歳月を経て完成しました。
高松塚壁画館運営 – 公益財団法人 古都飛鳥保存財団|日本人の心の故郷『飛鳥』より引用
(現状模写制作者)
総監督:守屋多々志 副監督:今井珠泉(敬称略)
制作:磯野怜子・遠藤俊久・小野浩一・木村孝男・倉島重友・小松崎千砂子・齋藤彰男・篠崎美保子・戸塚和郎・松野秀世・山本真也(敬称略、五十音順)
(一部復元模写制作者)
総監督:守屋多々志 副監督:月岡栄貴(敬称略)
制作:今井珠泉・入江正巳・後藤志朗・後藤芳世・近藤千尋・白岩圭介・月岡栄貴・蓮尾辰雄・守屋多々志(敬称略、五十音順)
再現模造模写につきましては、昭和49年に寺田春弌 東京芸術大学教授(当時)以下12名の科学者および画家の方々に制作をお引き受けいただき、約2年を経て完成しました。
僕は全く美術史に詳しくないのですが、前田青邨や平山郁夫などの日本画家たちが、描いたのだと思うと、これはこれでまた一つの美術品なのでは、という気持ちになります。
最後に見上げた天井の星縮図。(恥ずかしながら、行くまで星縮図が描かれていることを知りませんでした…)
天井の星々を見上げ、四神、日月、16人の男女群像に見守れながら眠っていたのですね。
高松塚壁画館、とてもよかったので、思わずペーパークラフトを購入してしまいました。
作ってみたら、どの位置に、何が描かれているのかがわかって、とてもよかったです。
高松塚壁画館 副葬品のレプリカ
壁画の他に、副葬品のレプリカも展示されていました。
ここにあるのは複製ですが、海獣葡萄鏡が出土していたのですね。
また俵鋲などの金具も発見されたそうです。
そして、このか鏡や金具も全て重要文化財にしてされていまして、今も調査が進んでいます。
2年ほど前、金具についての発見があったというニュースを拝見しました(高松塚古墳の出土品、800年ぶり元の姿判明…木棺片と金具が一致)ので、まだまだこれから新たな発見があるのかもしれません。
発見から50年経っても新たな知見が得られるというのは、すごいことですね。
副葬品の実物は、飛鳥資料館で保管されているのだそうです。
高松塚古墳へ
さて、高松塚壁画館を出た後、そのまま高松塚古墳へ向かいます。
壁画館の中へ入った時よりも雨が強く降ってきていました。
壁画館でご一緒になった一組のご家族がいまして、祖父とお孫さんが大きな声で口論をしていました。
ムムム、気まずい…と思いつつも、あまり不自然に避けるのもいけないと普通に歩いて行きましたら、ちょうどタイミングが同じ、という結果になりました。
年配の男性は、年長者として示すべき威厳を持って孫を諭すのですが、全くその声が届いていない様子で、大きな声で反発していました。
お互い言っていることはよくわかるのですが、高松塚古墳の前で言うことではないのでは、という気持ちになりました。(年長者は特に)
わあ、特別史跡高松塚古墳です。
特別史跡 高松塚古墳
高松塚古墳説明版より引用
特別史跡指定:昭和48年4月23日
史跡指定:昭和47年6月17日
高松塚古墳は7世紀末から8世紀の初め頃に造られた古墳です。昭和47年の発掘調査で、日本で初めて、石室内に描かれた壁画が発見されました。墳丘の内部には、16枚の凝灰岩 の切石を箱形に組んだ石室(内部の奥行き265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cm)があり、その内面に塗られた漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれていました。こうした壁画古墳は、日本ではこの高松塚古墳とキ トラ古墳しか知られていません。石室は中世に盗掘されていましたが、大刀の飾金具や銅 鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土しています。
壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行いましたが、壁 画の劣化を止められず、平成17年に、石室ごと取り出して修理することを決定しました。平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500m離れた仮設修理施設で修理作業を進めています。現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果などをもとに、築造当時の姿(下段部直径23 m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものです。
平成21年 文化庁
いやしかし、高松塚古墳は、想像以上に丸く、小さかったです。
あれだけ見事な壁画や副葬品が残されているのだから、どんなに大きい古墳かと思っていましたが、小高い丘のよう。
高松塚古墳の時代になると、サイズがどんどん小さくなり、その後古墳はなくなっていくのだそうです。
日本古墳の終末期を代表する古墳の一つだそうなので、「古墳として最新の形」なのですね。
古墳築造当時と、その後、盗掘のあったとされる鎌倉時代のことを思いながら、高松塚古墳を眺めました。
高松塚古墳の被葬者は特定されていませんが、これが築造された時から、高貴な方がおられるのはわかっていたと思います。
盗掘なのか、それとも何か意味があって入ったのかはわかりませんが、玄室へ入るには相当な勇気が要ったはずです。
壁画や副葬品を残しておいたから、こうして後世で見ることができたのだから、感謝しないといけませんね。
さて、この次はキトラ古墳に行きました。
その話は、また次回に書こうと思います。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。