讃岐十景汐木山荒魂神社 というタイトルを聞いても、その場所がどこで、どんなところか知っている方は多くはないだろうと思います。
僕自身も他のところはある程度聞いたことがあったけれど、この場所がいったいどこのことなのか、全くわかりませんでした。
そうした点では、最も知られていない讃岐十景ということになるかもしれません。(いや、僕が知らないだけで、かがわさんたちは知っていて当然ということだったらすみません)
しかし、かつての港町を思い浮かべることができる景色もあったので、この記事を機会に、 汐木山荒魂神社 のことに興味を持っていただければ幸いです。
讃岐十景汐木山荒魂神社 の場所
まずは、汐木山荒魂神社の場所から見て行きます。
そもそも汐木山(塩木山)というのが、どこかもわかりませんが、三豊市三野町にあるようです。
このところ、大体行ってから2週間くらい様子を見て記事を書くようにしているのだけれど(行って体調が悪くなりましたとなると書けないので)、ここを訪れた後三豊市の11月、12は大変な時期でした。
まずは鳥インフルが発生し全部で12例。その後に市内の病院でクラスターが発生。
僕の記事自体がこれに関係することはないけれど、やはり同じ市内で大きなニュースが続いていると、書き難いものです。
今はややそれが落ち着いた感じもするので書いています。
ですので、写真の様子は全て10月の半ばのものです。(美霞洞渓谷の後くらい)
では実際にはどの辺りにあるか、というと香川県の西の方です。
ふと思いついて作成して見たのですが、讃岐十景の中では一番西にあり、西讃地域では唯一の讃岐十景です。
こうしてみると、やや地域的な偏りがありますね。
三豊市と言っても、とてもその範囲が広く、南は徳島県境までありますが、今回は瀬戸内海側に近いエリアです。
僕は詫間と言う方がピンとくる場所なのですが、実際には三野町の吉津というところ。
これまで訪れたり、ブログで書いたりしてきた場所を地図に載せてみましたが、見事にどこも近くありません。
津島神社や弥谷寺、瀬戸芸で粟島へ行く時に利用した駐車場や須田港、紫雲出山や仁尾へ行く道の途中です。
ああ、書くたびに思うけれど、昨年は仁尾八朔人形まつりがなかったなあ、という寂しい気持ちになりますが、また今年の楽しみにしておきます。
普段でしたら、大体このあたりに駐車場があって、停めて行けますよ、という内容を書くのですが、行く前も、行った後も、荒魂神社についてはそのような場所は見つけることができませんでした。
しかし、僕は車で行きましたので、最後まで詳しくご覧になると、「なるほど、こうやって行ったのだなあ」ということがわかる仕組みになっております。
公共交通機関もなく、車でも行きにくい、というところから考えると、前回の小豆島坂手洞雲山に次ぐ難易度ではありますが、探しながら行ってみたいと思います。
具体的には、高松から国道11号線を行き、善通寺を抜けて鳥坂峠を右折します。(饅頭屋さんの交差点)
そのまま詫間の方面に進むと、高瀬川にかかる橋があり、渡った後に詫間新的場で左折すると、琴平へと続く県道のこの場所に着きます。
まあ、普通は通り過ぎてしまいますよね。
目立つとほど高い山ではないし、特徴があるとも言えないし、そして何よりここに本当に讃岐十景があるのだろうか、という気持ちです。
しかし、行って見た後だからわかることだけれど、これは全体が社叢なのでは、と写真を見て思います。
ただの低い山ではなくて、荒魂神社の社叢と思えば、また見方も変わってきます。
県道には、ちょうど標識があったから、この先は三野町でここまでは詫間町なのでしょうね。
この道を進むと琴平まで続くから、詫間から琴平へ抜けるこの道は、大体いつも車の往来が多い道です。
山側に続く細い道へ入って行きます。
車が一台通れる程度の道幅ですが、まっすぐに山へと続いている感じ。
このまま神社へ行けるのか、と歩いていると、左側に大きな石灯篭のようなものを発見。
あの辺りがそうなのでしょうかね。
住宅街の一角の路地には、小さな川があり、橋が架かっていました。
何か説明版のようなものが見えます。
「旧蹟讃岐汐木港」という碑があります。
汐木港跡について
三豊市教育委員会の説明版より
昔、三野津湾は百石船が出入りした大干潟であった。
寛文年間(1660年頃)京極藩によって潮止堤が築かれ、汐木水門の外に新しく港を作った。
これが汐木港である。
当時の藩は、御番所・御運上所・浜蔵(藩の米蔵)を建てた。船の出入りも多く、三野郡の物産の集散地となり、北前船も寄港したと言われている。
明治からは、肥料・飼料・石材を揚げ、米、麦・叺を積み出す会社、銀行、商店が軒を連ねていた。
しかし、国鉄バスの開通に伴い、昭和十二年(1937年)に「的場回転橋」が固定され、船の出入りが出来なくなり、港の歴史は終わった。
ちなみに、荒魂神社の常夜灯大平社は、かつての港の燈台である。
市指定史蹟 昭和61年9月9日指定
三豊市教育委員会
おお、これは、たくさんのことを教えてくれる、とても役に立った説明版でした。
僕は何にも考えすに歩いたこの一帯は、昔海の干潟で、この場所は港だったのですね。
そう言えば、幾筋もの水の流れがあるし、変わった場所だなあという感じはしていました。
そして、京極藩の御番所や浜蔵、どこかで聞いたような、と思っていたら、そうでした四国村にありますよね。
実際には丸亀にあったものを移築して資料館にしているのだけれど、ここにもこういうのがあったのでしょうね。
いやあ、こうして考えると、昔の説明や写真だけではなく、実物を移送、移築して博物館にしている四国村の価値が理解できるような気がします。
「御番所」という説明を見て、何百年も前の建物を、当時のように見られるなんてことは、なかなかないだろうと思います。
四国村、時間が経てば経つほど、その価値が広く知られるようになると良いですね。
荒魂神社 讃岐十景碑と大平社の灯篭
少し話がそれましたが、先ほどの灯篭はやはり荒魂神社のものだったのですね。
ここからは近いはず、と突き当りの道を左へ進みます。
すると、本当に数十メートルというところに神社の神門がありました。
細い道ですが、路地に沿って荒魂神社はありました。
そして門前には讃岐十景の碑もありました。
裏には「塩木荒魂神社」と彫られています。
昭和2年11月のことだから、港が姿を消す10年前。
ここが汐木港として、賑わいを見せていた頃に建てられたものなのでしょうね。
探しやすいところにあって、よかったです。
向かいには、後年「さぬき百景」に認定された際の石碑もあります。
こちらには、「汐木山と荒魂神社」とあります。
なるほど、昔から今に至るまで、荒魂神社はこの地域の景勝地として、受け継がれて来ているのですね。
両サイドが一般のご家庭になるので、少し気をつけながら全体を撮ってみます。
少し下がると、灯篭があり、さらに下がると、御旅所のような一角がありました。
「大平社」と書いてあるのでしょうか。
これが先ほど向こう側から見えていた灯篭なのでしょうね。
今はその役目を終えてしまっているけれど、かつてはこの灯りを目指して、船が着いていたのでしょうね。
もう随分埋立られていて、その面影は少なくなっているけれど、運河のように、海へと続いていたのだろうなあ、としばし眺めました。
そう思うと、ここはなかなか良い景色のところでした。
荒魂神社の石段
さて、荒魂神社の方へ戻ります。
この場所から見ると、何となく一直線に階段があって、その上に社殿があるのかな、と思います。
右から左へと読むのですね。
左右には武者姿の木像が見えました。古いものなのでしょうかね。
これも見ていたら、なかなか立派な扁額です。
門をくぐると、左右には一般のご家庭のお庭の壁があるのですが、何となく異世界に入り込んでいくような、そんな感じがあります。
誰もいない静かな細道を行きますが、本当にこのまま先に行ってもよいのだろうか、とさえ思うほど。
そして石段の手前で立ち止まり、ふと上を見上げます。
ムムム、奥まで見通せない…。
何となく鳥居があって、石段が続いているのはわかりますが、それがどこまで、というのがこの位置からだとわかり難いです。
もちろん急な階段が続くので、足腰が心配な方は無理しない方がよいと思いますし、登にしても、ゆっくり上がってみてください。
途中にこの地区の地図があって、場所を確認すると、やはりこの上のすぐのところに社殿があるようです。
それがわかると、階段を上る足取りも軽くなります。
最初の鳥居が見えてきました。
行った後に確認すると、この場所が振り向いて景色を見渡せる最後の場所でした。
この後は木陰に隠れてしまっていて、景色は見えません。
なので、社叢は全体が木々に覆われている、と言うことになります。
見えているのは三野町、その向こうが弥谷寺や善通寺の方面です。
ここら辺り一帯が港だったのですね。
鳥居からは、こんな感じで森のトンネルに入って行ってしまいます。
最初の鳥居の脇には東屋と脇に抜ける小径がありました。
その奥には、小さな社がありました。
さらに石段の上には、二つ目の鳥居がありました。
もう木々に覆われてしまって、見通しはききません。
ここには百度石がありました。
なかなか可愛らしい表情です。
この上が社殿になると思うのですが、手前は石垣が積まれていて、まるでお城の様でした。
上が見えて来るとホッとしますね。
振り返ると、ずーんと下まで見えるので、やっぱり急な石段だったのだなと思います。
一番上まで来ても、木々が生い茂っているので、景色は見えませんでした。
荒魂神社の本殿
石段を上がりきると正面に本殿がありました。
お参りをしてから、辺りを見て行きます。
大きい建物ではないけれど、綺麗にお掃除されていて、地域で大事にされているのだな、というのがよくわかります。
改修碑なのか、いくつか石碑もありました。
奥の方へ抜けられるような道があったので、見渡せる場所があるかも、と思って行って見ました。
崖崩れを防ぐような工事をしたような場所を過ぎ、木々のないところまで出ると、
少し先ほどの神社の感じから遠い景色に、少し驚いてしまいました。
ちょうど裏手の山はすでに崩されていて、岩が剥き出しになっています。
帰宅してから、Googleマップで確認すると、こんな感じになっていました。
何か事情があるのでしょうね。
再び神社に戻り、石段を下りて行きます。
帰り道に、かつて港だったところを見ながら帰ります。
神社の前の道をそのまま北の方向へ歩くと、三野町と詫間町の境(今は三豊市だが前は別の自治体)がありました。
この先は詫間なのですね。
何も考えずに先に進むと、あっと驚くようなまっすぐな道が現れました。
車が一台通れるかどうか、という道で、しかも両サイドには川が流れています。
これは僕が知らないだけだったら申し訳ないのですが、両サイドに川が流れていて、その真ん中をまっすぐに延びる道って、香川には他にもあるでしょうか。
車の往来は、この時2台くらいだったので、とても穏やかな感じのする通りです。
自転車とかで、春に来たら、きっと素敵なかんじだろうなあと思います。
両サイド、植木や手入れをしたら、きっときれいな通りになるような気がします。
まあ、慣れていないと、車で行くには勇気のいる道ではありますが…。
道の突き当りには交差点があります。
「的場」という交差点だそうです。
最初の説明版にあった
「昭和十二年(1937年)に「的場回転橋」が固定され、船の出入りが出来なくなり、港の歴史は終わった。」
的場回転橋というのは、ここなのでしょうかね。
奥には水門があって、その竣工記念碑もありました。
その向こう側は、海へと繋がっているのでしょうね。
この水門の裏にピカソというスーパーがありました。
ピカソ、最近32号線にも新しくオープンしていました。
さて、讃岐十景荒魂神社を巡ったお話もここで終わりです。
汐木港の歴史を感じながら、見てまわれたのがよかったです。
春には、桜が綺麗に咲くそうだから、少し暖かい季節になると、また良い雰囲気になるのかもしれません。
お近くに来られることがありましたら、是非お立ち寄りください。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。