今回は 栗林公園の水辺 を散策した記事です。
この記事を書くのと同じタイミングで秋のライトアップは始まっているから、もしかしたら、それを期待されている方には申し訳ない記事になるかもしれません。
秋と言っても10月の下旬頃、まだ紅葉は色づきが始まったかどうかというところで(実は個人的にあんまり紅葉に興味がない)、緑の方が勝っている時期の栗林公園です。
この記事で書こうと思っているのは、松平賴壽公の胸像、西湖周辺、ガーデンカフェ栗林のことなどですので、もし 栗林公園の水辺 にご興味がおありでしたら、どうぞお読みください。
栗林公園北口から
週末に子どもが習い事をはじめたので、その間の数時間夫婦だけの時間を過ごせるようになりました。
もちろん、これまでも留守番させて、二人で出かけることはあったのですが、定期的に、という感じではなかったので、毎週どこ行く、何食べる、なんて相談しています。
天気も良いから栗林公園のカフェは、なんて言うので行ってみました。
もちろん僕はカフェもまあまあ見てみたいけれど、それよりいくつか行ってみたいところがあったので。
ライトアップイベントがある時期以外は、比較的週末でも栗林公園は空いています。
昨年までは、海外からのお客さんが多かったのですが、その姿がほぼ見当たらず、その前はかつてこんな感じだったよな、という落ち着いた雰囲気となっています。
栗林公園のちょうど七五三の撮影の時期なのか、着物を着た小さい子の姿も見えました。
ちょうど北口から入って、南へ進むと芝生広場があります。
ここには、いくつかの記念碑や銅像がありまして、そのなかに今回見ておきたいものがありました。
芝生広場からちょうど東側に、「松平頼寿閣下像」という胸像があります。
ここに像があるのは知っていましたが、それが誰で、どんな方なのかまではよく知りませんでした。
松平さんということなので、高松藩の所縁の方かなというところまでは想像できるけれど、頼寿さんと言われると、ちょっとわかりません。
いや、もしかしたら地元の香川さんたちにはよく知られた方なのかもしれません。
僕が知ったのは、讃岐五景や讃岐十景を見始めてからのことです。
この碑の揮毫された方が頼寿公だそうです。
なるほど、いろいろ見てみると、貴族院の議長をされ、盆栽の愛好家だった方なのですね。
讃岐五景も、十景の石碑も、それぞれ流麗な文字だなあと思っていたので、一度その像を見てみたかったのです。
なるほど、この像が栗林公園の静かな広場の中に、松に囲まれて大事にされてるのは、そういう意味があったのですね。
あまり知られていない場所ですが、是非お近くを通る際には、ご覧になってください。
西湖周辺
そこから少し南へ歩くと、枕流亭の付近に出ます。
紅葉の時には、それはそれはたくさんの人ですが、この日はそうでもありません。
暑くも寒くもなくて、時折人が行き交う程度、このくらいが栗林公園を楽しむには、ちょうどよいです。
枕流亭前でも、紅葉は始まったばかりでした。(10月下旬)
枕流亭の前の流れは潺湲池。
潺湲池、読み方が難しいですよね。
(3)潺湲池(せんかんち)
栗林公園 – 香川大学 工学部・大学院工学研究科 讃岐ジオサイト(12)栗林公園より
護岸は讃岐岩質安山岩で、玉石(小石)は和泉層群の砂岩で構成されており、香東川の旧河道が復元されています。
そうか、香東川を復元しているのですね。
あまり石に注目したことはなかったのですが、そういう見方もできるのですね。
向かいには芙蓉沼から続く水辺があります。
その先には西湖がありますが、この日はちょうど太陽の加減もよくて、絵を描いている方もいました。
木々の間から陽が差し込んでいて、青空が水面に映っていました。
一組の親子が亀を見つけて、亀、亀と言っていました。
ここは亀がたくさん泳いでいます。
涵翠池から掬月亭を見ていると、白い雲の陰影が水面に浮かび、消えていきます。
あらためてこうやって見ていると、栗林公園内は水が豊富だなあと思います。
小さな橋を渡ると、小普陀と呼ばれるエリアがあって、そこをさらに超えて歩いていきます。
栗林公園の南西の端っこになるのですが、この辺りは静かでなかなかよいところです。
観音堂跡
観音の霊場に因むとされる手前の小普陀と相対するこの一角は、藩主松平家の初期に建立され、明治初年に撤去された仏祠、観音堂の跡地である。
栗林公園 観音堂跡の案内より
紫雲山の東麓で、深山幽谷のこの附近は、豪族佐藤家の居址及び庭跡、即ち、本園発祥の地とも伝えられている。
ほとんどの方は歩かないような藪の中というか、とても目立たない場所ですが、この辺りに以前は観音堂があったということです。
野趣あふれるというか、完全に野生と一体化しつつある場所です。
さらに先に進むと、ますます山の麓という雰囲気になってきますが、説明の案内板が設置されていました。
こちらは不動口門跡だそうです。
不動口門跡
栗林公園 不動口門跡の案内より
藩主松平家の祈願所であったとも伝えられている隣接の法照山悉地院観興寺(本尊:不動明王)へ通じる門がここにあったところである。
今は木々が生い茂っていますが、昔はここに門があって、栗林公園の外にあるお寺に通じる道があったのですね。
100mで行き止まり、という説明もあるので、いつもは行きませんが、ちょっと行ってみます。
この辺りは美しく手入れされた木々というよりも、野生との境界、という感じです。
しかし道はしっかりと踏みしめられていて、通ることができます。
左手は、その先がちょうど山側になっているのですね。
西湖の南端でこの小径は行き止まりです。
小動物を避ける柵がありました。
山側の野生と公園との境をリアルに見られる場所でした。
あまり注目されることがないけれど、小普陀の景色も素朴でよい雰囲気なので、いろんな場所から眺めることができると良いですね。
戻って来た鯉
楓岸を歩いて東側に向かいます。
紅葉の時期はとても混んでいるので、滞ってしまわないように足早に進みますが、少し時期を外せば、そんなに人は多くありません。
吹上亭の前には、少し人がいて、お団子を食べたり、鯉に餌をやってりしています。
この記事を書いている2年前、2018年のことでしたが、栗林公園で鯉ヘルペスが見つかって、一度池の鯉が全ていなくなりました。
その後に県内外からクラウドファンディングなどで費用を募り、少しずつ数を増やしていました。そして2020年11月に鯉は元の数にまで戻ったそうです。
僕が訪れたのは10月下旬だったので、この時の数からまた増えていると思います。
和船乗り場の辺りにも、数匹いたから、やはり以前と同じくらいに戻ってきているなあという気がします。
やはり池に鯉がいたら、眺めていて楽しいですよね。
和装の若い方が夫婦松の前で写真を撮られていました。
夫婦松
栗林公園 夫婦松の案内より
この松は、赤松(別名:雌松)の幹の下部から、黒松(別名:雄松)の枝が張り出している。
赤松と黒松が組となり1本の松に見える姿から、夫婦松の愛称で呼ばれている。
なるほど、根元が一つのように見えるけれど、赤松と黒松なのですね。
松の生い茂った少し狭い道を行くので、どうぞ足元に気を付けて見に行ってください。
梅林橋の周りにも多くの鯉がいて、小さな子たちが餌をやっていました。
季節や訪れるお客さんの数にもよるのだろうけれど、よく食べる時とそうでもない時があって、この日は随分お腹が減っていた模様です。
競うように餌を食べていました。こういう時は面白いよね。
ガーデンカフェ栗林
商工奨励館辺りに来ると、奥さんは早くカフェに行こうと言っています。
この建物の左側の方にカフェがあります。
ブライダル事業を手掛ける会社が運営しているのですね。
ガーデンカフェ栗林
結構いつでも人が多いイメージがあって、入ったことがなかったのですが、待っている人もいないようなので、入ってみます。(中には数組いましたので、中の写真はなし)
検温をして、消毒して、間隔を空けて座席も配置しているようです。
奥の方には、讃岐うどんの歴史の展示がありました。
奥さんは「讃岐八十場ところてんと高瀬緑茶のアイスのあんみつ(黒蜜)」にしていました。
八十場ところてんと高瀬茶のアイス、その組みあわせだけでも意外なのに、それをあんみつに、というとても変わったメニューです。
暑い、というほどではないのですが、歩いたら少し冷たいものが欲しいかな、という季節でした。
カフェでゆったりできてよかったです。
中庭に大禹謨
時間が迫っていたので、もう行かなければ、というので、僕は最後にもう一つ見ておきたいものがありました。
ガーデンカフェ栗林の建物の裏に商工奨励館の中庭があります。
そこには、数奇な運命を持つ石が一つ置いてあります。
大禹謨と書いて「だいうぼ」と読むようなのですが、この石がまたすごいのです。
大禹謨
栗林公園 大禹謨の説明より
本園は1630年頃に香東川の改修工事でせき止められた廃川敷に造られた。この石碑は、改修工事を手掛けた西嶋八兵衛が、治水の成就を願い「大禹謨」と自ら書き川中に祀ったものである。
1912年に市内香川町で発見され、1962年に保全と顕彰のため本園に安置された。
香川県では知らない人はいないというほど有名な西嶋八兵衛さん。
満濃池の改修をはじめ、豊稔池から注ぐ井関池や、粟井神社の岩鍋池など、広く讃岐の治水、ため池築造に関わった方です。
この方が今から400年ほど前、川を堰き止めるために「ここだ!」と思った場所に置いたのが、この石だそうです。
なかなか歴史の背景や、場所がわからないと?という感じになるのですが、詳しくて読みやすいのは、
大禹謨発見のドラマ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター
で語られているないようです。
ざっと地図にするとこんな感じ。
ざっくり言うと、香東川(香川の由来という説もあります)の東の流れが氾濫するので、それを堰き止めたいけれど、その大事な場所に「大禹謨」の石を置いた、ということなのですね。
そして、石は大事にされてきたのだけれど、時代が変わる度、何度かなくなるけれど、その後偶然見つかり、今栗林公園で保管されている、という感じ。
今の高松のはじまり、今の栗林公園のはじまりに、とても関係が深い石なのですね。
石とその隣の西嶋さんの顕彰碑を見ていると、ふと高松が舞台の小説海辺のカフカを思い出します。
その下巻の表紙にも石が描かれていますが、大禹謨の石に少し形が似ています。
前にイサム・ノグチ庭園美術館に行った際にも丸い石のオブジェがあって、その時にもそう思ったのですが、そんな不思議な石が高松にはたくさんあるなあと思います。
大禹謨の石は今後、もしこの地で騒乱が起きた時、またこの石は一度失われるかもしれませんが、きっとまた探し出されるのでしょうね。
今は平和な時期で、大事に栗林公園の中庭に置かれていますので、是非立ち寄ってご覧になってください。
少し散漫な内容になってしまいましたが、栗林公園の成り立ちを池や石から見てみると、また面白いこともあるなあと思います。(見始めるとキリがないけれど)
紅葉やライトアップも、もちろん素晴らしいのですが、もしお時間があったらゆっくり池や石を見てみてください。
それでは、今日はこの辺で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。